「YouTube革命」を読了。

アメリカのそのほかの動画サービスの現状などなど、知らないことも多く、勉強になりました。
ひとつだけ気になることがあります。
個人的には2004年の秋くらいからYouTubeを使ってます。当初はごく一部の日本のミュージシャンのPVがある程度でほとんどはアメリカでアップされた動画でした。それでもレディへのライブ音源も充実しているし、もしかしたらあるかも、と日本の様々なミュージシャンの英語表記をアレンジしては検索したものです。
ここまで日本からのアップロードが増え、爆発的なサービスになったのは、ひとつには日本人の資質(オタのみならず、録画コレクションを持ってる人って結構多いし)もありますが、あとはタイミングと偶然もあると思っています。
芸能界で起きたいろんな事件やらの問題動画をアップ&シェアするのに手軽なサービスとしてそこにあったとか。
「2007年は動画とCGMの年だ」なんていわれているのを聞くと、CGMはともかく、動画かそれはYouTubeがこうなったからだろう、と思う。YouTubeがなければ、動画サービスそのものがここまで一般化はしなかっただろう。GyaOが以前から急成長してきていたとはいえ、バナー同様のCMを挿入している辺り、従来のビジネスモデルを超えていなかったし、ユーザーもかつてのサービスの延長で使っていたに過ぎなかっただろう。通信環境が整備された故の伸び率に過ぎなかっただろうし。やっぱり、YouTubeで「動画」というコンテンツが特異に注目を集めたといえる。

そして、個人的に気になるのは、YouTubeを語る日本のギークの人の多くが、非常に崇高なイメージになっていること。

テレビ=低俗、旧メディア。
YouTube未来派、新メディア。

みたいな。もちろんわたしもYouTubeが大好きだし、画期的だとも思うのですが、ここでテレビと対比したメディア論まで展開するところにまだ違和感を感じます。
あくまでも現在のYouTube並びに動画サービスは、「テレビありき」だという現実を直視するべきじゃないかなと思うのです。

視聴率という指標のくだらなさ、CMありきのテレビのビジネスモデルの限界、冷静な効果測定なり、新たな指標が必要である点などは激しく同感だし、そんな指標を作りたいと常々思ってます。
でも、現状はまだ、見逃したテレビの動画や、もう一度みたいテレビの場面を見るために使われるのが主流だという事実がテレビの底力だと思います。
デジタルホーム的な利用方法の変化とともに当然変わってくるだろうとも思いますが、今のユーザー動向に現れている、人がいかに世俗的な情報に関心を抱くかという事実を忘れるべきではないと思います。

作者は、YouTubeでの日本のユーザーが、極楽とんぼやらアンガールズやらの不祥事動画を見たがることを憂いていましたが、これが人の関心の持ち方であり、マナー面では日本のユーザーとして恥じるべきことは多いと思いますが、この傾向が国民性なのか否かは別にして、これらの動画も立派なジャーナリズムだと思います。著作権の話はさておいて、ですが。

もちろん、続々とオリジナル動画があがって、新たなクリエイターが登場することは望ましいことだと思いますが、YouTubeの多数のユーザーの希望という感じではないと思います。これからは各企業やらが工夫を凝らして、オリジナル動画が投稿される仕組みをつくるようになるだろうし、よいことだとも思いますが、そこからギークが言う「質が高いもの」が登場する確率はまた別の問題だと思います。

ワープロが普及して原稿用紙に書くより簡単に小説が書けるようになったりしても、小説家は増えなかった。それと同じようなことかと。

長々と書いてきました。まとめると、ウェブという世界だからこそ、情報にジャーナリスティックな優劣をつける必要はないんじゃないか、というのが個人的な意見です。それじゃあ今までのメディアと一緒じゃん、っていいたくなる。ウェブにおいては、「知りたい」という個々人の欲求こそが力を持ち、わたしたちは批評家になるのではなく、常に自分が知りたい何かに耳を澄ますこと。他人が知りたいと思う何かに対しても、法以外の規定を持つことは無意味な気がする、そんなところです。