chelfitch「わたしたちは無傷な別人であるのか?」@横浜美術館

TPANのイベントのひとつ。
Nibrollの後はしごしてきました。
快快もNibrollもこちらも、満席完売状態でした。

生でチェルフィッチュの舞台をみるのは初めて。
終演後も重苦しく多くの「?」が渦巻くも、
多くの人がこんな禅問答的な演劇に巻き込まれたことが興味深いな、と思う。
自分を含めて。

以下ネタバレ。

微妙な姿勢と動きで、状況の経過が説明されていく。
数人の演者がそれぞれのやり方、言葉で、観客に情報を与えていく。

ある男とその妻のはなし。
幸せそうに「見える」男と、自分は幸せであり、それは「だれにでも手に入る」と釈明したがる妻のはなし。

順風満帆に「見える」男の日常には、予期せぬ嫌悪感や怒りという、アンコントローラブルな感情が介入し、妻の胸のうちには、「幸せであること」に不吉を差し込む「取り巻く不幸」が文字通り訪れ、騒がせる。

そこには、「他人」の存在が乱す感覚があり、同時に彼、彼女が感じる「幸せ」は、その他人との相対なしにはなし得ないし、あり得ない。

「相対」についての議論。

「幸せ」とは、「それを取り巻く幸せでないもの」と相対して共存している。
幸せでないものは言う。「あなたはわたしたち幸せでないもののことを、拒絶してはいけない。受け入れなくてはいけない」。

時に、幸せでないものは、幸せなものにたいして拘束力すら持とうとする。
わたしたちの存在なくして、あなたたちの相対的な幸せは存在しない、と。
そして、その幸せが内包するさらに相対的な幸せへのアンチテーゼに対して、唾を吐く。吐くことができる。


「相対性」と「相容れなさ」、「後ろめたさ」と「憎悪」は、おそらくどんな他者との間にも存在し、わたしたち「個」が世界に在ると同時に生じている歪みなのだと思う。
それでもわたしたちは、世界にただ在るのではなく、世界の存在を、相容れない存在を求め、発見し、時に驚き、時に落ち着く。

あまり簡単に自分自身を投影したくないものだけれど、内側にある生温さに対して、悪態をつきたくなることがあるし、それはその生温さと自分の不遇をとりあえず比較したような場面だ。
例えば政治家に、「わたしたちががんばって税金払ってるから、あなたたちは給与を得ているのでしょう。それなのにわたしたち庶民の存在を忘れちゃいませんか?」と糾弾するようなこと。
反対から見れば、「わたしたちががんばっているから、あなたたちは暮らせているんですよ。あなたたちには努力が足りないから不満を感じるのではありませんか?」と糾弾するようなこと。

相対を意識することで、私たちの何が変わるのかは分からない。
少なくとも、相対的に「在る」ことを意識するよう突きつける不穏さが、不自然な身体のゆがみとともに残る舞台だった。

わたしたちは最初から、歪んでいるのだ、相対がなければ何も語れないほどに。
「幸せそうに見える」も、「自らを不幸だと思う」も、自ら都合よく課した相対の産物だということを、意識して、日々を生きるのだろう。

見終わってから、横浜をぶらぶらして帰る。
できるだけ不穏を減らしたいと思うのは、自らが選んだ他者に対して湧く感情なのだろうか、そして同時にそこにこそ不穏の種をぶちまけそうになるのも、自ら選んだ他者だからなのかな、なんてことを思いながら。