春樹ワールドの「僕」への想像力

遠い傷みに対してなんの想像力も持てなくなる。他人を無為に傷つける。自分が立つ地平で、この瞬間に起きている出来事について、耳に入ると心が乱れる。錯雑とした内面から逃げるように何かを語ったところで、そこにはなんの責めもない。
ただ、その瞬間に感じた切迫感が、偽りだという根拠もない。
喘いだその舌の根が乾かぬうちに、とてもとても矮小で、狭苦しく薄っぺらな、自分の箱庭に心が囚われる。

「僕」ならどう思うかな、と今日ふと思った。
村上春樹の物語が好きだ。それはおそらく、登場人物である「僕」の考え方が好きだからだ。

いつも淡々としていて、自分の周りの世界を丁寧に、慎重に眺める。無意識に秘めた何か、時にそれが独り歩きしてしまう「僕」自身にすら振り回されながらも、何とか折り合いをつけようと努力する。他人の目にはとても退屈で、何の変化もない様相を呈していたとしても、日々静かに、微かに進歩する。そんな風に自分を含めた物事の輪郭を、じっと見つめることができる。
わたしが好きなのは、この「小ささ」なんじゃないかと思う。自分の外側にある世の中における良識と称されるものや、その定規で測った小ささではなく、何とも比べる意志を持たない「小ささ」だ。意志を放棄することができるからこそ、「僕」は「僕」として、世の中と折り合いがつけられるのだと思う。必要以上のことを語る「必要がない」。

外側への無責任な切実と、内側への惰弱な執着とがない交ぜになっている今の自分には、「僕」の達観は空を掴むような話にみえる。そして昔は、「僕」の感覚を共有することができた。できていた気がする。きっと道筋を思い出せば、何となくなぞることはできるだろう。

落胆しているかといえば、それも違う。ただ、「僕」ならどう思うのかな、と想像するのだ。さもしい感情で境界を見失うのも、悪いことじゃない。「僕」ならこれをも、小さな進化と呼ぶかもしれない。

ただ、なぞることで過信したり、混在をすべてと捉えるような無神経さだけは、身につけるべきじゃないだろう。自分の主観をどこかで引き受け、責任をとっていたい。その時のものさしであれ、小さな変化を見出す気づきを持ち得ていたい。他人に対してもてあますほどの感情を抱くということは、そういうことなんじゃないか、と最近思う。
「やれやれ」。「僕」なら今、つぶやくのかな。(笑)