ビル・ヴィオラ展@森美術館

最終日に駆け込みで、ビル・ヴィオラ展@森美術館を見てきました。思い返すと、去年も最終日に高校サッカー決勝中継を見てから、杉本博司展を見に行きましたっけ。懐かしい。

ナム・ジュンパイクの助手を務めたこともあったせいか、並べら評されることも多い両氏ですが、同じ「ヴィデオアート」で括られがちながらも、その作品世界は非常に異質です。

ナム・ジュンパイクの作品からは、時に疾走や焦燥にも似た技術の進歩、未来への憧れを感じますが、ビル・ヴィオラの作品からは、未来というものへの焦燥は感じないのです。
むしろ現在とその線上にある大きく重い過去、そして当たり前のように続く小さく見える未来が、真摯に、謙虚に描かれています。焦燥があるとするなら、人間というもの、死に向かって現在を生きる人間を支配する「抗いがたい何か」を見ようとする強い欲求と、それを何とか作者自身の、わたしたちの目の前に出現させようとする過程にあるのかもしれない。

男性が静かにこちらに向かって歩いてくる。スクリーンの両面、同じようにこちらにゆっくりと迫ってくると、静かに立ち止まり、片面では足元から立ち上った炎に包まれて消えてゆく。そしてもう片面では、天から落ちてくる水にのまれて消えてゆく。

出現と消滅。

彼の作品のある時期を貫く大きな軸はまさにこれだろう。炎が下から上へと昇天してゆき、水は上から下へと死んでゆく。生と死という二つの対極をまるで上下のすり替えのように描いてく。

そして後半の大作、何かを待つかのように集まっている人びとを暴力的な水が襲う。崩れ落ち、のみこまれながらも、ゆっくりとゆっくりと立ち上がる人の様子を予見させる。

「わたしはこの作品を作りながらも、だれひとりのまれることはないことを知っていた」
と作者自身が語っているように、近年の作品の強さの所以は、「何かを信じること」だと思う。漫然と生きるわたしたちに、さまざまな方法で人間の極限状態や、抗いがたい感情の波の存在を意識させるような刺激を与えながらも、目を閉じたときに心の奥に小さいながらも芯のような意志と、身体に共通感覚という名の記憶を残す。

怒り、悲しみ、喜び、怖れ。幾重にも重なった情緒の刹那。人間が秘めている不思議と強さ。身体でしか感じ得ない存在。ずっと忘れかけていた、いくつもの極みを教えてくれる展示内容でした。

昔は、アートや漫画といったフィクションのなかで、シンプルな暴力を眺めるのが好きでした。それは現実を超えたもので、たぶん対岸の火事的に、リアリティを伴わないものだったからでしょう。
現実に起きることの多くはわたしの身体には接点がないことなんだろうけれど、そう思うことが許されない気持ちになるほどに、陰惨な出来事が続きます。フィクションですら、シンプルに眺めることができなくなってきた昨今。

身体が知っていたはずのこと、精神が耐え難いほどの苦悩、のみこまれては浮き上がる人間の強さ。こんなことを思い出すだけでも、何かが変わると信じたい気持ちになりました。