村上春樹 「かえる君、東京を救う」〜「アフターダーク」


悲しいかな。日付を越えてしまいました。
仕事はじめも、会社はがらがら。かなり、大丈夫かよ、な気分になる。
社会人になってから仕事はじめに休んだことがない。旅行などに行かないせいもあるんだろうけど、休むという小さなことで負い目を感じるのがいやだから、という小さい了見も染み付いている。新卒で入った会社は、それ位殺伐とした、足元を見合う職場だったせいだろうか。


で、今日のお題。
昨年末に、村上春樹の自薦短編集「はじめての文学」読んだ。最後の作品である「かえる君、東京を救う」を何度も何度も読み返した後、「アフターダーク」をむさぼるように読んだ。今にして思うと、前者の読み方は自分なりに正しく、後者は微妙に間違っている。「アフターダーク」は、もっとゆっくりゆっくりと、時間をかみ締めながら読み、最後にその重みから少しだけ解放される小さな喜びと不安を味わうべきだったように思う。でもそれができないから、村上春樹はおもしろいんだろうなあ。

「かえる君、東京を救う」は、世界中の苦境に立っている人、立ったことがある人、孤独や寂しさを知っている人のために書かれた作品だ。

しがないサラリーマンである「わたし」をある日突然巨大なかえるが訪ね、明日地震を起こそうとしているミミズ君とともに戦って欲しいと依頼する。「なぜ『わたし』なのか」の問いに、かえる君は「『あなた』でなければならない理由」を説明する。そしてふたりは……

といった若い世代のために書かれたおとぎ話なのだけれど、あとがきに、

「かえる君が住んでいるのは、そういう領域だ」

といった表現が出てくる。
かえる君は、世界のある場所にたしかに存在している。
きっとそれは、かえる君のかたちをとっていたり、いなかったりするんだろう。
わたしはきっと見過ごしてしまうかもしれないし、気づいているのかもしれない。
彼の物語に潜む、寓話を超えたリアリティこそ、わたしたちが「すがるもの」であり、「信じるべきもの」なんじゃないかな、とやんわりと思った。

で、「アフターダーク」。
この作品はどこまでも、物語ではなく小説だ。今までとは少し異なる描写の仕方や、姉妹というものの描き方、多少の違和感は感じたものの、最後にとても小さな希望が託されている。少なくとも、「よいことを望む」気持ちこそ、時として潔癖な人間が持ちにくくなるそれこそ、この文字数を通じて伝わってくるものだ。この文字数と時間をかけないと伝わらない何かへの執着こそ、わたしが春樹を読み続ける理由だ。

さて、じゃあなぜ「今ごろ」読んでいるのかと自問したくもなるが、読みべきときがくるのをじっと待ちたくなるのが、わたしにとっての村上春樹作品との距離のとり方だ。まあ、実際そうやってゆっくり手をつけていかないと、読むものがなくなるのはあまりにさびしいから。笑。