さらば、「シガテラ」

Shigatera


ここ数日のモヤモヤ感は、おそらく「シガテラ」最終巻からくるものだと思うので、やっぱり言葉にして整理してみよう。


谷実はどれも好きですが、「シガテラ」は「ヒミズ」といい勝負なくらい好きな漫画でした。そんなことはどうでもいいのかもしれませんが、彼の作品の好きな
ところは、心象風景を2次元に落とし込んだり、擬態語で済ませるところを具体的なイメージに落とし込んでみせるコマ割。これは特に「シガテラ」は絶妙だっ
た気がします。
もうひとつは、若いということが背負う負の力。こちらはまさに、「ヒミズ」。背負って背負って最後負けたのか、勝ったのか、呑み込まれたのか。
結果をどう解釈するかはどうでもよくて、その力の渦のようなものが好きです。

で、「シガテラ」。
荻野君は、逃げながらも自分の内面と正直に向き合ったと思います。
自分の中に生まれた感情があふれてきたら、きちんと疑問を持ったり、それを将来とつなげて考えてみたり。
救いのなさと、一瞬かもしれない幸福感の間でバランスを取れずにいる姿は、まさに若さなんだと思う。
最終巻に入って、彼ひとりのなかで自分を追い詰めていくのではなく、次第に周りに迫られることに対しての切迫感や、周りに応えることに終始していく様子に、
極端な感情移入をした一読者としては失望しました(これ、妄想読者のたわごとですが)。

それでもなんとか、周りからもらったきっかけを自分の中に持ち込んで出した彼の結論。
所詮自分は一人で生きていくといういじけ気味な覚悟
→それを箱に入れて奥に奥に封印しておき
→ともに生きたいと思ってくれる人がいたら感謝してともに生きる

これはこれで、非常に考え抜いた上での結論だと思います。
卑怯だとも思わない。
でもこの結論は、突き詰めて考えるとものすごく実現しがたいことのように思えます。
それぞれを言い訳にしてバランスをとるにはいい結論だけれど、このうちのひとつだって完遂するのはむずかしいと思う。
どうなんでしょう。

この後の場面、荻野君が夢の中で、
南雲さんのためなら死ねる?
と問われ
「死ねる」と答える場面があります。
ま、シンプルにいっちゃえば、死ねるつっといてラスト普通のオトナになっちまうのかよ、なんですけど(笑)、この問いをそのまま自分に投げかけると、言葉に詰まってしまう。
好きな人のために死ねるか? と問われれば、「死ぬほど好き」とか世間的によくいうもんですが、自分もたまにそんなこと思ったりするもんですが、実際「死ねる? 死ねるのか?」と問われると、考え込んでしまいます。

自分がいて、相手がいて、相手のことを好きな自分がいる。
たぶん自分は、自分が見ている、自分がいっしょにいる相手のことが好きなのであって、自分が死んだら好きもなにもあったものではなく。
結局「いっしょに楽しくやっていこうよ」とよく口にしていた南雲さんの言葉が、軽くて薄くはみえても真実の気持ちなんじゃないかと思う次第なのです。

不安の塊りはなくなり、予想以上にがんばって、立派な大人になった。
これからは他人の人生を背負いあうほどに、立派な大人になった。
そして同時に、つまらない人間になった。

そこで、ドゥカティを買おう、と思う荻野君は、多分とても等身大な主人公なんだろう。
妄想読者としては、つまらない人間になる前に、もうちょっと突き詰めるとこなかったのかとか思ってしまったり、「なった」って過去形で語ってる場合じゃないだろ、とか、自分自身の不甲斐なさを重ね合わせてがっくしきちゃうんですね、きっと。

現実に置き換えれば、ましては自分に置き換えれば、彼のドゥカティみたいな、具体的な何かにイメージや思いを託して、まるでお守りやおまじないみたいに日常を乗り越えようとすることばっかりなのにね。

とまあ、ぐだぐだ書きました。
結局、理想像として描きつづけられたのは、自分のなかでは谷脇君だけでした。
最後に登場する彼の日常は、まだまだ耳を切り落とされて成敗した狼君の陰を引きずっていて、それを強引に封印するでもなく、自分の一部として生活している様子に共感しちまいました。

はっ、わたしはやっぱり逃れなれない何かにつきまとわれてる人が好きなだけなのか。

ぐずぐずぐぐずぐず考えて、そういう輩こそ、痛いことや大切なことを簡単に忘れていく。

荻野君にいらついたのは、きっと理想とかけ離れた自分の姿がだぶったからかもしれない。

まあいいや。
ドゥカティに乗った時に、過去の痛みをひきずっていると錯覚しながら甘い気持ちに浸ってくれ。
そこで甘い気持ちにもなれないよりは、そのほうがずっとすっきりするような気がしてきた。
おぎぼー、ゆうこちゃんと幸せになってくれ。