小谷元彦「幽体の知覚」展@森美術館

年単位に久しぶりにブログを更新。
twitterやらいろいろ手段ができたから書かなくなったのか、書くことがなくなったのか。
正確に言葉にすると「書けることがなくなった」気がする。
昔よりもネットの世界が日常とつながってしまった感覚があって、自分に対し書いていたことがいつの間にか自分以外が視野に入ってきてしまったこわさからくる「書けることの」のなさと、自分自身が言葉にするに足るほどに集中して考える精神的な余裕がないこと。
両方ある気がする。

ともあれ。
2月の末に見に行ってきた。

小谷元彦さんは、作品が視覚的にただただしびれる作家のひとり。
好きとかじゃなく、とにかくしびれる。かっこいい。

言葉にできないもやもや感や、説明がつくことの閉塞感を、クールに凌駕してくれる。

作品を見ていて、目に入ってきたものがそのまま神経に響く感じは、聴覚でいう際際のギターサウンドに近く、バーンと弦を弾かれた瞬間に頭の中が真っ白になって、体中の血液がさーっと重力に流されていくようなあの感じ。

「Fingerspanner」の、細く張りつめた線に引っ張られる身体感覚や、「Phantom-Limb」の幻想のような美しい少女の手の内ににじむ一瞬血液を思わせる赤。

当たり前の身体が異質な状況にさらされている緊張感にひたすらぞわぞわ、くらくらしてしまい、均衡というゆるいだるさに甘んじている自分を入れる箱に対してやたらにいらいらしてくるのだ。

今回の展示は、今まで小さなギャラリーやぎゅうぎゅうの展示で見たことがあった作品を、美術館ならではの完璧かつ無機質な空間で見ることで、凄みが増して、久しぶりに、ああ、美術館ってすごいよなあ、と思いました。

彼の作品自体が、美術館にのまれることなくタイマンを張れる、覚悟とストイックさで成り立っているからなんだろう。
そしてこういう作家さんを日本の美術館がきちんと向き合って、紹介していくことはとてもすてきなことだと思いました。

今回初めて、音声ガイドを聞きながら展示を見てふたつ。
ひとつは、作品の説明を聞くと、その裏側に想像以上の知的な策略があること。
いつも小谷さんの作品をみて、神経的にやられて、目に見えるもの以外考えてもこなかったので、初めて知ることがたくさんあった。

ふたつは、そこまで知りながら見ても見なくてもいいんじゃないか、ということ。いまひとつ音声ガイドと作品を見るペースがあわなくて、見ている先から作家の意図や、評論家の解釈が流れてくると、何だかここの料理はミシュラン3つ星のシェフが作ってるから絶対おいしいんだから、といわれて食事をしているような、息苦しさがあった。

ipadとかで、知りたい作品の知りたい項目だけを引き出せるといいんだろうけど。それを音声でも実現できたら理想的。

美術館を出て眺めるあれこれのワイヤーのたるみ具合が、神経を逆なでしてくれたけど、それが生活というものか。

今回のキュレーションを担当されていた荒木さん、友だちのお姉さんだったのを思い出した。
荒木ちん、元気にしているのかな。
死ぬまでにあえることはあるんだろうか。