ラグジュアリー:ファッションの欲望

みてきました。
京都のほうでは服飾系の収蔵品を見る機会がありそうですが、
東京で見れるのは貴重。
民族・民俗に特化した服飾史の展示はちょくちょくあれど、
こういったテーマでの切り口って実はあんまりなかったり。
チャレンジな企画でした。

大体年代順にラグジュアリーファッションが並びますが、何しろすごい。
数百年を経て残っていることもそうですが、当時のひとたちがどれも手わざで作り上げた背景、
身に着けて社会的役割を演じた人を想像すると、本当に不思議な気分になる。

ボタンひとつひとつに繊細な絵柄を配するように、ディテールまでこだわり、愛するのが人なんだなあと、こういう動機はシンプルでよいなあと思う。

途中19世紀の服と並んでViktor & Rolfやミュグレーといった20世紀以降の服が並ぶ辺りは、時代のくりかえし的な意味でもわかりやすく面白かったけれど、サンプルが少なかったです。

全体を見て思ったのは、やっぱりシャネルやヴィオネを超えるような変革は、近現代のファッションにはないよなあ、ということ。
もちろん女性の地位や時代の変化の時期と重なっていたこともあるのだろうけれど。
かたくななまでに自分のセンスを信じて突き進む様が、時代の変化をむしろ早めることに加担したんだろうと思う。

最後の川久保玲エリアでは、80年代から現在までのコレクションを飾った作品が多数並び、それぞれを見たときの衝撃がとっても近い過去としてよみがえったのだけれど、時代の変化とはつながっていないところが、現代だなあと思う。

女性が不自由を纏う規定から解放され、自由になった後、着ることで体験できる社会とは、文化とは、着るという行為そのものに疑問を呈するより方法がないところもあるだろう。

着心地の悪さ、展開したときの美しさ、からだが服に合わせることの不合理。

自らの身体に疑問を投げかけ続けることはなかなかしんどい作業であり、考えることを放棄しがちなわたしたちは、そこに「刺激」という名の非日常を求めるんだろう。

ぐだぐだかきましたが、とにかくシャネルとヴィオネの服は美しく、着心地のよさが伝わってきた。
ほかにも60年代にも森ガールブームあったのか、とかシャネルの日常着がMAXMARAにみえたり、いろんな発見があります。笑。

あとこちらの企画展もなかなか。
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スタティックなものって重力ないじゃん、とかって批判をしがちな自分には、モーターを使って動くことでのみ何かを伝える一連の作品は、じりじりとして面白かった。
コンセプトは一文でも、それを重力の移動で見せるととっても難儀で、時に空っぽに見えたりもするのが、絶妙なエンターテイメントとかすかな焦れ感をそそる作品にしあがるのは、アートの面白さだなと改めて。

地下のレストラン、contentで食事。

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おいしかった!