「日本の10大宗教」

LUMINEの中のブックファーストのジャンル別ランキングに、最近読んだ意外な本が入ってました。
「日本の10大宗教」。
普通の本ですが、確かに新興宗教系だけをまとめた本はなかったかも。
この人の本は問題になった時期を含めてよく読んでますが、どれも文章が平易なのであっという間に読み終わります。

この本に関していえば、立正佼成会霊友会系の分裂や細分化の歴史が非常に興味深かった。このあたり疎かったので。
ただ、本当に事実にかかわる部分のみで、それぞれについて深い考察などはないです。
日蓮宗はどうしてこれだけ長い間、日本人の心をとらえ続けるのだろう。
もう少し詳しく踏み込んでみたくなった。

作者が構成した事実を通すと、人が宗教に熱情を注ぐ原因のひとつに、「法座」や「座談会」といったものをあげている。人が日々の悩みを共有し、相談しあう場があることが、入信のきっかけや信仰のモチベーションになるという。
逆に、真如苑に関する部分に、比較的作者の宗教観があらわれている気がするのだが、法座や座談会が日常のなかの非日常であり、エキサイティングで重要な体験である必要がある。こじんまりとしたものでは足りない。

日常の退屈さをいかにしのぐかが、現代の人間の根本的な問題である。極めて現代的な真如苑という教団は、退屈さをしのぐ機会は与えてくれそうにはないのである。

宗教にこれを求めるのは、個人的には危険かつ、陥りがちなことだと思う。人は、自分に抱えきれない問題を背負い、最適な相手がいれば共有したり、救ってほしいと願う。それはおそらく「思想」でもよく、そこから抜け出すための思考法を模索したりもする。

ただ、自分なりに見つけた思考法には不安がある。これで本当に正しいのか、何か裏づけがほしい。正しいという「声」がほしい。
これは人が宗教を求める動機付けのひとつだと思う。

わたしは信仰心はないので具体的にいえないけれど、名言のようなものだと解釈している。何かしらの言葉にふれたときに、これでいいのか、とか、こういう乗り切り方もあるとか、共感できるうれしさ、気づくことができた(気がする)喜びというものがある。
宗教において語り継がれる言葉は、それに近いイメージで理解ができる。

ただ、それが思考を超えて人というものに引っ張られるようになると、いろいろややこしい感覚はある。もちろん、集まって悩みを共有できたらいいだろうと思う。議論を超えて分かり合えたときにはエクスタシーすらありそうだ。

戦争で一度神を失い、祝い事の際にも日本人として共有できるしきたりを持たないに等しい国民性にとって、神とは非常に身近に潜むものだと思う。
日常の小さいことを解決できて、触れ幅と興奮が大きいもの。

ただこれが、作者の言葉にあるような「退屈をしのぐ」という目的と重なってしまうと、一気に危険度が増す。あまり言葉にしないほうがいいことだと個人的には思う。

とまあ、つい熱く書いてしまったが、自分が宗教に関する書籍をついつい読み漁るのはなぜなのか。その答えもおそらく周辺にある。

島田裕巳氏のブログはライブドアブログにあります。
こちら。超増刷みたいです、売れてるなあ。
ざっくり知るには手軽な本だと思います。
http://blog.livedoor.jp/shhiro/


「日本の10大宗教」
幻冬舎新書
島田裕巳/著