「ワカラナイ」小林政志

初日に見に行くも客席には私を含め3名。
渋谷の公園の前の小さな映画館。もうすぐクローズするそうだ。

カナリア」を観たのもここ。
あるものを選び、あるものを断ち切り、こっぴどく裏切られた挙句、仕事をさぼって徘徊した帰り。
秋になりはじめの夜だった。
とってもどうでもいい格好をして、帽子をかぶってあのあたりを歩くと、気持ちが落ち着いた記憶がある。
自分が何者でもなくていいような気楽さ。

「ワカラナイ」は秀逸なタイトルで、下品な自分は、「誰も知らない」的なものを期待して足を運んだ気がする。
×10みたいな青いフィルムのなかで起きるのは、或る少年の現実。

16歳の亮(小林優斗)は、一緒に暮らす母親(渡辺真起子)が入院したため、一人でコンビニエンスストアのアルバイトをしながら生計を立てていた。だが、母の入院が長引き、彼は次第に日々の食事にさえこと欠くようになっていく。そのうちアルバイト先でレジをごまかし、食べものを家に持ち帰っていたことがバレて、クビになってしまい……。

せりふはほとんどなく、「空腹」「絶望」を抱えた少年の日々を、少年の目線で撮影しているのだが、それは当然、少年と「同化」することではなく、むしろ「傍観」している感覚が増していく。

生活に追い詰められ、死んだ母親を火葬することも、未納の入院費を払うことも、おなかいっぱい食べることも、学校へ通うことも、屋根のある定住地を持つこともできない少年が、「どうすればよかったか」を訊ねる場面で、初めて自分が一瞬、のみこまれた感覚があった。

でもわたしには答える言葉がない。

考えていないからわからないのか、
考えることをそもそも放棄しているのか、
傍観でしか生きていないからわからないのか、
世のなかというものがわからないものなのか。

絶望的な気持ちのなか何も残さず映画は終わる。
微妙に短縮された時間軸を生きていた少年に、かける言葉も見つからないまま。


「どうしてそんな映画を見に行くの?」と訊ねられた。

わからない。でも少しだけわかる。
どん底に落ちても尚、その先の底をのぞきこまずにいられない感覚。

頭上を飛ぶ鳥にうまく便乗したり、足元の石を花に見立てて蝶を集めたり、
逃げ場を見出しながらも、「傍観してるだけ」、としらをきれるタフさがないから。

わからない。