Syrup 16g「Syrup 16g」を聴く

受け皿が浅い自分は、そのほか雑念でいっぱいになってしまうと、
音楽から聴けなくなる。
音楽を聴くための広くて深くて大事な部分が、
どうでもいいものに侵食され、
そこで小さい音でちびちびと音楽を聴くなんてロックの神様に失礼。
な気がしちまうのです。


仕事とわたしについてはまだ悩む余地がたくさんありますが、
最近少しずつクリアにしようとしてきたおかげで、
音楽が聴けるようになってきた。

* * *

もう、久々に聴いたiPod本体(nanoじゃなく)に入っている
壮絶なグッドミュージックの数々に、衝撃を受けました。
こんなに名曲ばかり入っていてどういたしましょう。
これがあるだけで生活が一気に色づいてしまって、
むしろ色づくだけのライフタイムが足りませんよ、的な。

ここ1年ほど買ってなかったCDをどかどか買ってます。
以前は月に20枚とかかってた時期もあったのに、
いまにしてみると、よく音楽補充しないで生活できてたな、です。

* * *

で、シロップの解散も最近知ったのです。
ああ、情けない。

アルバムもほとんど全部買ってるし、
ライブも何度か行ってる。
フェスでもちゃんとステージ移動して聴いてる好きなバンドだったのに。

でも不思議と、そんなこともあるんだろうな、という感想。
mysongが出たあたりからだろうか。
このままシロップが続いたらどうなってしまうんだろうという、
不安に近い感情があった。

それまでの暗くて、うらみがましくて、内省的で、自分を責めるようなことばから、
何かを昇華させたような、こんな言葉で評していいの? と戸惑うような、
ストレートで時におだやかな楽曲に一気に変わっていったから。

もちろん、アルバムのなかでバランスがあって、
攻撃的な曲もあるんだけれど、時に人を愛することの強さと情けなさと、
それでもそんな自らの中の強い思いを讃えるような楽曲の落差がすごかった。

周囲を醒めた目線で見回してため息をついて
どうでもいいや、になっていたのが、
糾弾する言葉を吐き出しつつも、自らのなかに、
いえなかに「も」ある暖かい何かを、
ごくごく自然に受け入れられてしまった自分に対する戸惑いと喜びと。

ああ、この喜びはどこまで続くものなんだろう。
危ういバランスに不安を感じていたのは事実。


だからシロップの解散を聞いても、
悲しい。でも仕方ないな、という感情しかわかなかったのかもしれない。


でまあ、CDを買う前に、
大馬鹿なわたしはJAPANのレビューとインタビューを呼んでしまいました。。

五十嵐さんの「万感の思い」という言葉だけ。
これ以外は全部極力忘れてから聴こうと思ったら、
本当にほかの内容は忘れてしまいました。笑。
レビューはまるで、文芸作品みたいによくかかれていたのに。

* * *

感想をいうと、ミュージシャンである前に、生活者である彼らが
普通に直面してきた葛藤や日々の起伏が
ぎゅっとつまたってアルバムだと思いました。


うだうだ書こうと思えば、書くことはたくさんある。
うまいこと解釈することだってできる。

破滅の美学を利用して いざとなりゃ死ぬつもりだった

で幕を開け、

夢の先のことを考えて 泣くのはもう やめておこう

で終わるまで、まさに万感が詰まっているけれど、
わたしは「バナナの皮」に代表されるような、
どこかで自分自身を笑うことができるたくましさが大好きだった。

床に落ちた バナナの皮
自分で投げて捨てた
それ忘れて 遊び疲れ
踏んでコケるような人生

究極の美しさの対極にあるのは、醜さじゃない。
どちらか片方だけを選ぶのは卑怯なことでもないし、
そんなに器用に生きられるものでもない。

コケてしまうような不思議な道化が、
時に苦しくなるほどの彼らの世界観のなかで
一種の救いになっていたような気がする。


いつも彼らのアルバムを聴いていると、なんかくすっと笑えることがあった。

「愛と理非道」
あれだけ美しい曲にも、こんなタイトルを与えるんだから。

武道館は3月1日。
だるそうなMCに笑うだろうか。
はずした構成に苦笑させられるだろうか。

楽しみだ。