梅田望夫×平野啓一郎をいまごろ

梅田望夫さんと平野啓一郎さんの対談を今さら一部読んでみた。
平野さんが固執しているひとつは、わたしが「ウェブ進化論」を読んでどうしてもストンと落ちなかった部分と同じで、「善意と悪意」のバランスの話。ウェブに携わる人間として、善意が残っていくことを信じたい反面、瑣末な悪意に触れると揺らぐ気持ちもまだある。梅田さん自身も語っていたように、触れている層がリテラシーが高いからそういった確信が持てるというのもあるだろう。

あとひとつ感じるのは、「言葉より」、「技術より」の違いなのかな、とも思う。
「言葉より」の人は、ネットに散らばるひとつひとつの言葉の悪意にため息をつき、重く受け止めがちだろう。流し読みできずに、その言葉の裏にまで思いを馳せて考え込んでしまう人も多いと思う。

ただ、「技術より」の視点でみると、個人的な悪意はともかく、ネットに対する悪意(スパムがいい例なのかな)に対しては、戦う手立てがある。細かい手法でいえば、Google八分のように、悪意を指摘してクロールからはずす選択もできる。さらには、検索のアルゴリズム閾値で、ある種の情報のランクを下げることだってやろうと思えばできるだろう。

重要なのはこの「さらには」部分で、一定の基準さえ決まれば、技術的には情報をコントロールして目に触れにくくすることができる。そうなれば、瑣末な悪意ひとつひとつに心を砕く必要はなくなるだろう。

別の言い方でいえば、情報を「思い」で見るのか、「価値」で見るのかといった感覚的に分かり合えない違いがあるような気がする。

「思い」で見始めると、人として共通の感覚だとか、原始的な喜怒哀楽、そういったものに振り回され、そしてそれが多くの人と共有「されるべき」ではないかという錯覚を覚える。だからこそ、潜在的な悪意を孕んだままネットの世界が膨張していくと、同じ勢いで増えた悪意はどうなるんだろう、と不安を感じる。

「価値」で見始めると、価値があると判断した情報の範疇で世界を考えることができる。悪意であれ何であれ、自分にとって「価値」のない情報であれば存在自体を気に留める必要もなく、その範囲内では悪意を膨張させる要素も見当たらない。
これはおそらく、梅田さんが語った、見ている情報、関わっている人がいい意味で偏っている話につながる。

この分かり合えない部分と、情報の「範囲」についてもうちょっと考えてみる。