mixiの中身が晒されるのは

個人的に抗議の気持ちをこめて、mixiを使わないようにしてきましたが、
そんな小さなことをしていても仕方ないので、一度思うところを書いておきたいと思います。

明大演劇部員生の殺害事件に始まり、今回の徳山高専の女生徒殺害事件においても、頻繁にワイドショーやニュース番組でmixiの日記画面がテレビ画面にうつし出され、読み上げられ、ひとつのドキュメンタリーのように語られました。

その導入はいつも、「被害者はブログをつけていました」「被害者は日記を公開していました」といったもの。
mixiという運営会社は、これらの番組内容に対して何かしらの抗議はしているのでしょうか?
テレビ局側は当然、番組での紹介確認をとっていると思うのですが、mixiの広報サイドはどのような対応をしているのでしょうか?

山のように増えたブログサービスのなかで、mixiがこれだけユーザー数を獲得しているのは、もちろんコミュニティとしての機能が強化されていることも魅力のひとつだと思います。ただ、一般のブログ以上に本名を公開して参加する人が多いのは、彼らのサービスの売りのひとつである「招待制」の「クローズドコミュニティ」であるからではないでしょうか。

被害にあった方々が、日記をどこまで公開設定していたかわかりませんが、当然検索エンジンクローラーの入り込む余地のない招待制ソーシャルネットワークの内部での書き込みに対して、それなりの安心感を持っていたのではないでしょうか。

そこまで思っていなかったとして、彼らのサービスは、それも売りのひとつとして会員数を伸ばしてきた点には相違ないのではないでしょうか。

亡くなった方々や、事件について、何も知らないわたしが語るのは適していないと思うので、自分個人に置き換えて言います。

何かあって抗議すらできない状況になったときに、こんな風に非公開のはずの自分の日記が電波にのって駆け巡る事態は耐え難いです。

メディアが悪い、という考えもあるでしょう。
特にテレビ関係者のなかには、SNS自体を理解していない人も多いかもしれない。
ただ、サービス提供者として自社のサービスの魅力を信じているのなら、きちんと相手に説明して、認識してもらう努力を惜しむべきではないし、それが「仕事」ではないでしょうか。

そのフィールドにおける、ひとつの「規範」を作っていくこと。そしてそれを実践という形で示していくこと。

ユーザーの反応に応じて変わったって、ネット上のリテラシーの変化に応じたっていいんです。「今」「ここ」の立ち位置を明らかにして、自らに課すということ。

この状況を見ていると、少しだけ詐欺などが横行し始めたころのヤフオクを思い出します。あるサービスで先行者となったり、圧倒的なシェアを占めると、そのフィールドで何かが起こったときに、指摘を受けるのも、時には槍玉にあげられるのも社会的な使命だと思います。

厳しい状況や戦うべき状況、負荷が高くても改善せざるを得ない状況に直面したときに、きちんとそれらと向き合うかどうかが、生業としてお金をもうけている立場に問われる「真価」ではないでしょうか。
長い目で見てその先にさらによい理想像が描けるかどうか。
非常に難しいことだと思いますが、真価が伴ったサービスを使いたい、1ユーザーとして素直に思います。

SNSの意味を逆に説明することで、新たな層からさらにいい使い方が生まれてくる、そんな可能性だってあるのにね。