当事者による発信メディアが必要なら、2chやブログのリンク集でいい

ひろゆき氏「市民メディアはマスコミに勝てない」
こんな記事が掲載されています。

市民メディアとして活動するJANJANが、「ブログが出てきて個人が自分でメディアを持ち、Google検索で欲しい情報も得られる今、我々は何をすればいいのか」を考える討論会を実施。
その場でのひろゆき氏の発言が取り上げられています。

上で使ってしまいましたが、「メディア」という言葉がいまいちピンときません。
新聞、テレビといったひとつの語る媒体を指すのか。
ネットの場合は、情報が集まったポータルを指すのか。
個人が発する意見はジャーナリズムなのか、自覚なしに垂れ流すからジャーナリズムが崩れるのか、そんな議論もよくなされていますが、どれもまだ自分の中で答えが出ない。

ひとつだけいえるのは、「特権」が少しずつ減る世の中になっているという事実。
新聞がいったから、有名な評論家がいったから。そういうものの見方は薄れていっている気がします。
まあ、アルファブロガーという言葉があるくらいなので、「あの人がいってるから」とう意識は引き継がれているのかもしれませんが、この「あの人」の成り立ち方やその機会はだれにも平等にある気がします。

メディアだから、個人の情報発信よりも優先されるべきだとか、そういった議論には意味がないように感じます。
情報は平等である、つまり何もかもが無料であるべきだという発想も、一長一短だと思っています。

ここで一般論に落として考えてみると、「当事者の語る情報」に価値があるのは当然だと思います。下世話な話ですが、「体験」というものはお金で買えるものではなく、「体験」した人にしか語れない言葉がたくさん存在します。

そう考えると、それをむやみやたらに求める思想にも奇妙な違和感を覚えます。

とまあ、まとまりがなくなってきました。
ひろゆき氏のいうことも、一本筋が通っていると思いますが、
その筋がまっすぐつきぬけているだけで、どこにも繋がっていかない気がします。
一巡りして、何かしらのフェーズに繋がるような突き抜け方をしてほしいな、というのも彼の頭のよさを信頼する個人としては思います。

逆に、JANJANは既存の小さな考え方の輪から、一度突き抜けるべきなんじゃないかとも思う。まず「メディア」だからという発想を捨てること。あらゆることを、メディアで片付けずに、個人の集合体として、自分自身に置き換えて考えてみることが必要なんじゃないでしょうか。

最近のネット議論を見ていると、いつもこの、小さいサークルで自己完結する層と、その閉塞感から、ひたすら直線型に突き抜けようとする2つの流れが拮抗している気がします。

こんなとき、話し合いから何か生まれたらいいんだけど、なかなかむずかしいのね、というのが今回の感想といったところでしょうか。