ボブ・ディラン「NO DIRECTION HOME」

イメージフォーラムに見に行ってきました。
途中一回休憩も入る4時間近い長編。
「帰る家を探している」旅の途中であるディランのデビュー当時からの
映像、社会情勢、そして現在のインタビューを織り交ぜた
ある種丁寧に組み立てられたドキュメンタリーだ。

途中、ジョナス・メカスウォーホールの映像がちらり出てきたり、
アレン・ギンズバーグが語ったりと、
時代感がうまくつながっていないただのビートニクあこがれ世代にとっては
彼らが同じ時代に、どんな世の中から生まれてきたのかが少しだけ頭の中でリンクして興味深かった。

日本という小さな国では、音楽がその時代や社会活動を象徴するものだったり、
各地域の抱える状況を伝える手段だったりということがぴんとこないけれど、
ディランが紡ぐ言葉が、プロテストソング、フォークを代表する主張として
一人歩きしていく過程は、なかなか息苦しいものでした。

人が押し付けてくる都合のよいレッテルを剥がし、
次も同様のものを求めてくる浅い期待から逃れ、
自分がするべきことではなく、自分がやりたいことにこだわり続ける彼の活動は、
文字通りブーイングの嵐の棘の道ながら、非常に勇気があるよい意味の「個人主義」の第一歩だった気がします。

自分が切り取りたい時代、理解したい人たちのことを歌いたいと思えば歩み寄って深く知り、「歌う前に歌の意味を知り」、
そう思わなければ、別の自分のやりたいことを模索する。

フォークを求め続ける聴衆のブーイングのなか、
彼がバンドともに演奏した「like a rolling stone」の最初の一音。
キーボード、ギター、ベース、ドラム。何かを打ち破るかのような
あの音にものすごくしびれました。
打ち破ろうという姿勢と、心から自然にあふれだすリズムと。

ギンズバーグが、ディランの詩に、「自分たちのやろうとしたことが、
次の世代に受け継がれていることを知り涙が出た」とコメントしていましたが、
彼の表現し続ける音楽も、もちろん意味を微妙に変えながらも、
世代を超えて理解されていくものだと思う。
フォーク時代の曲のもつほとばしるような切実さはもちろん、
彼がロックでやろうとした、その瞬間の自分を見つめ、突き抜けていこうという勢いも、時間を超えて、その初期衝動をもってわたしたちの胸に響く。

彼の考え方に時代が追いつくは、おそらくこうしてドキュメンタリーが作られる現代になってからのことかもしれない。
それまでも、それからも、自分が本当にやりたいことを模索し続ける彼はまさに、孤独で先の見えない「戻る家を探す」過程にいるんだろう。
終わらない旅。時間をかけて意味と意義を重ねてきたおかげで、もうそこに陰鬱な影はない。
自ら選び、引き受ける旅。

「激しい雨」と「BABY BLUE」が無償に聴きたい明け方なのです。